「枯れたヒマワリ」に思う
大人は当たり前だと思っている。植物は、花が咲き、実、種ができるとやがて枯れていくことを。しかし、3年生くらいの子の思いはそう単純なものではない。
植物にある程度、擬人化して関わってきてまもない3年生の理科学習では、その影響がかなり残っている。
今日、夏休み前から久しぶりにヒマワリの観察をした。そして、その様子をノートに書いた。学級園は子どもたちがよく通る場所になるので、2学期になってもよくみていたはずである。が、じっくり観察したことはなかった。
子どもたちのノートを見てみると、次のような記述があった。
ある勉強のできる子の文章。
「さわってみると、ぱりぱりでした。葉っぱは茶色くて、ぱりぱりでした。くきがどんどん茶色になっていました。種がなくなっていました。はっぱが大きくて、花が下に向いて、すごくかれていました。」全体、各部分の特徴をぬかりなくとらえている。
やんちゃな男の子。「ぼくは、ヒマワリは年をとったみたいにかれていました。かわいそうだなあと思いました。もっと、長く、きれいに年をとるのがおそくなったらいいなあと思いました」この子なりの愛着をもった表現である。
別の女の子。「ヒマワリのくきは、おれていて、ヒマワリのたねもありませんでした。でも、だれかの1つだけは、ひまわりの黄色のはなびらがのこっていました。わたしもこれくらいはのこってほしかったです。」
いちばん、考えさせられたのが、次の女の子の文章。
「ヒマワリがおれていたり、花がのこっていたりしました。先生が毎日、水をやっていたけど、かれていました。さみしかったです。」 この子は、水をやっていると成長していくものと思っている。
これ、そのまま発問にも使える。「水をやり続けると、ヒマワリはずっと元気だろうか。」一年草なのでありえないが。
いつまでも、きれいな花が咲いた状態でいてほしいと子どもたちは思っている。しかし、その思いを覆すかのように、無残な姿で枯れている。水をやっていても枯れていくのをとめることができない。これが生きている植物の宿命である。次の世代に種を残して枯れていく。中には、種もできていないものもある。
目の前にある事実である。
植物の成長を学ぶということは、こういった体験をし、それを共有していくことである。